天文14年(1545)から15年にかけて北条氏と上杉氏は敵対関係にあった。
そしてついに、扇谷朝定(おうぎがやつともさだ)と山内憲政の両上杉連合軍が、北条氏康の将・北条綱成(つなしげ)の守る武蔵河越城を攻めた。
というのも、河越城はもともと上杉朝定の居城で、氏康の父氏綱に攻め落とされたといういきさつがあったからだ。
つまり、戦いの大きなねらいは、その奪還にあったのである。
8万余騎の上杉連合軍は幾重にも城を包囲し、糧道を断って孤立させた。劣勢に立たされた氏康は、憲政へ和解を申し入れたが、上杉軍は拒絶。
そこで、氏康は入間川の南まで進撃しては様子をうかがい、上杉軍が反撃にでると、小田原城へと引きあげるという戦法をとったのである。
こうした陽動作戦を数回、くり返すうちに、敵は氏康が出てきても相手にするなという態度にでた。
ようするに、敵の油断をねらったのだ。この氏康の作戦はみごとな成功をおさめた。4月20日の子の刻に上杉陣に攻めこむと、不意をつかれた憲政軍は一戦におよぶことなく敗走した。
討ちとった敵は、朝定はじめ1万6000、味方の討ち死には100人に満たなかったという。

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