旧幕府軍と政府軍とのあいだでくり広げられた戊辰(ぼしん)の役。そのなかでも、北越戦争は河井継之助(かわいつぐのすけ)の名とともに名高い。
越後の長岡藩を中心に、会津・桑名・米沢などの小藩がくわわった旧幕府軍と、薩摩・長州両藩を主戦部隊とする政府軍が激突したのである。
注目すべきは、その勢力の差で、旧幕府軍5000にたいして、政府軍は2万の大軍であった。
長岡藩はもともと朝廷と幕府にたいして、中立的な立場をとっていたが、それが日和見的だとされ、ついに1868年5月より開戦となった。
軍の規模に大きな差があったにもかかわらず、上席家老・河井継之助に率いられた長岡藩は善戦した。6月には長岡城付近に展開していた政府軍の中央を突破し、形勢を逆転。政府軍は立てなおしのため、一時撤退を余儀なくされたくらいである。そして、旧幕府軍は深夜の総攻撃をおこなって、長岡城を奪回するまでの活躍をみせたのだ。
しかし、この勢いもここまで。政府軍の総攻撃によって、長岡城はふたたび落とされてしまう。何度となく、不利な形勢を逆転しながらの、3か月におよぶ攻防はここでピリオドを打ったのである。
それにしても、5000対2万の戦いである。敗れはしたが「多勢に無勢」のことわざは、長岡藩には通用しなかったようだ。みごとなものではないか。

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