明治6年2月20日の太政官布告第65号によって、死刑台は絞架とあらためられ、17階段のついた絞架台が採用された。
これは英国式をまねたもので、日本にどっと押しよせた文明開化の波は、死刑の方法にまでおよんだというわけだ。
これに先立つ明治5年2月28日、日本の死刑執行史上前代未聞の事件が起こった。その年の夏に石鉄(せきてつ)県(現在の愛媛県)で租税課出張所を焼き討ちした、犯人の田中藤作が死刑の判決を受けた。
このころの死刑は宙吊り式の絞首刑で、規定どおり死刑執行3分後に死亡を確認、遺体をおろして家族に引き渡した。
田中の遺族が亡骸を家に運んで帰る、その道すがら、なんと遺体が脈を打ちはじめ、遺族の目の前で蘇生してしまったからビックリ。
「田中蘇生!」の話を聞いた石鉄県の聴訟課では、この措置をめぐって進退うかがいまでだす始末。それにたいする政府からの答えはこうだった。
「スデニシテ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキトコロナシ。直チニ本籍に編入スベシ」
つまり、絞首刑は執行されているし、刑の再執行をするという論拠もないから、すぐに本籍を作成しなさいということだった。強運な男もいたものである。

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