徳川300年の歴史ももう終わろうという、慶応4年3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会談が江戸の薩摩屋敷でおこなわれた。
このとき官軍は、3万人もの兵が三方から江戸を囲んでいた。これに対して幕府の中心勢力はいまの東京湾、つまり江戸湾に12隻の艦隊を置いていた。
幕府と官軍の勢力がにらみ合っている中での会談であった。敗色濃厚の幕府代表の勝海舟が心を砕いたのは、どう自分の要求をのませるかということ。
そして、交渉が決裂して、もし官軍が江戸を攻撃してきたら、江戸の町に火をつけて焼き払い、江戸の町民たちは掘り割りから船で逃がす算段だった。
これはナポレオンがロシアを攻めたときにモスを焼き払った焦土作戦にならったという。この捨て身の作戦が功を奏した。大詰めにきて、西郷は勝の要求をすべてのんだのだ。
江戸の町から火が出たら、大暴動になるのは必定だった。40万人はいたといわれる、その日暮らしの貧民が暴れまくるに決まっていたからだ。
西郷はそれを恐れて、勝の要求に従ったといわれる。こうして戦火も交えず江戸城の明け渡しはおこなわれたが、その裏には、こんな恐ろしい捨て身の戦術があったというわけ。
一歩間違えば、花のお江戸は火の海だったのだ。

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