大坂夏の陣によって、豊臣家は滅亡する。すでに関ヶ原で勝利し、征夷大将軍にまでなり、実質的に天下を握っていながらも、徳川家康は完膚なきまでに、敵対勢力をつぶしたのである。
この豊臣家滅亡作戦の必要性を家康が感じたのは、豊臣秀頼が予想以上に聡明そうだとわかったからだったという説もある。家康自身、すでに老い、先は短い。自分の死後、秀頼は徳川家を滅ぼそうとするかもしれない。ならば、先手を打とうというわけだ。
さらに家康を不安がらせたのは、秀頼の生殖能力だった。秀吉は、何十人もの女性と関係をもちながらも、子供が生まれなかった。
ようやく生まれたのが、秀頼だった。ところが、その秀頼は、子供をつくる能力が十分にあったのである。
秀頼の正妻は、千姫。二代将軍秀忠の長女、家康の孫にあたる。もちろん、政略結婚だった。
このふたりのあいだには子はなかったが、大坂夏の陣の時点で、秀頼の長男、国松は8歳、娘は7歳になっていた。いずれも母はちがう。このうち、国松は、最初は伏見に隠れていたが、見つかってしまい、処刑されてしまう。
だが、娘のほうは生き残った。千姫が、この子はかわいそうだ、女なんだし、将来、親の仇を討つこともないだろうから、生かしてほしいと、嘆願したのだ。家康もこの孫の頼みは聞き入れ、千姫が養母となり、鎌倉の東慶寺に預けられた。
そこで、尼僧となるのだが、なかなかえらい人だったらしい。なによりも、最大の業績は、東慶寺を女性のための縁切り寺にしたことだった。夫が乱暴するなどの理由で離縁したがっている女性の、駆け込み寺となったのだ。だが、彼女は37歳で亡くなってしまう。尼僧であるから、当然、子はいない。
これで、秀吉の子孫は完全に断たれたと思われたが、元禄時代の初めに伏見で80歳で亡くなったお坊さんが、その臨終のときに、自分は秀頼の次男だったといい残している。これが本当であったとしても、その子孫はなく、豊臣家はやはり滅んだのである。

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