「命を捨ててでも主君に忠義を尽くすことが武士道」、家臣がつねにそう心していたかというと、そんなことはない。
天正7年(1579)、それまで織田信長に帰属していた波多野秀治・秀尚兄弟が反旗をひるがえしたことで、信長の家臣・明智光秀は丹波の八上城を攻めた。しかし明智軍は城兵の抵抗にあい、長期戦を覚悟して城を完全に包囲した。
明智軍に包囲されて万策つきた城兵たちは、想像もできない行動に出た。
なんと、主君の波多野兄弟を捕らえて、「主君を差しだすし、城も明け渡すから、城兵の命を救ってほしい」と光秀方に使者を送ってきたのだ。
光秀にしてみれば棚からぼたもち、こばむ理由などない。あわれ、主君の波多野兄弟は安土におくられて処刑された。
尽くす甲斐のない主君であったのか、ただたんに自分たちの命が大事とクールに割り切ったのか、そのへんの内情はあきらかではないが、「下剋上」が当たり前の当時でさえ、特筆すべき珍事だった。
この一件は、江戸時代になって朱子学で忠義を説いた人びとにとっては困った話であったとか。

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